みくさのみたから vs 宗教(2017 仮)

 

       

   1 みくさのみたから 宗教か?

   2 ざっくりと較べてみたら……

   3 辛く哀しく怖かったこと

   4 どうして起きたの カンチガイ?

   5 てんでばらばら赤字の世界?

   6 まだあるみっつのあやしい要素

   7 みたから用語は面白い?

   8 みたからって効きすぎてない?

   9 みたからの見た目 芸術か?

   0 祭りのちからを取り戻す

       

       

  みくさのみたから 宗教か?

       

2011年の夏、飯田茂実というアーティストが、

みくさのみたからの後継者としてカミングアウト、

この昔ながらの心身術は日本各地に広がりました。

                         

現在(20171月)までに日本300ヶ所あまりで

みくさのみたからを身につける集いが催され、

「みたから」は世界20ヶ国あまりに広がっています。

            

世界中で、みたからを身ずから実践しつつ

周りに推挙している人たちの層はかなり幅広く、

年齢層も10代後半から80代まで広がっています。

             

各種の芸術・工芸・武術界・スポーツ界・芸能界

医学界・療術界・教育・福祉(出産・子育てなど)・

農林水産業・工業・法曹界(お坊さん・神主さん)。

      

「様ざまな分野」というよりも、すでに、ほぼ、

「あらゆる分野」を代表するリーダーたちが、

世界各地で、みたからを実践し、推薦しています。

           

2年前みたからが初めてカナダの学会に登場した際、

「みたからは、宗教ではないのか?」

という質問がアメリカの研究者から提示されました。

           

これは学会に限らず、よくある反応みたいです。

「念のため聞いておくけれど、それって宗教?」

「もしかして、宗教と何か関わりがあること?」

           

広く波及力や浸透力をもつ(らしい)新しい力を

過去の限られた知識・経験で位置づけられないとき、

とりあえず不安・疑念などを抱く人は多いようです。

           

そうした不安・疑念などを手早く解消するため、

「それ、宗教ってことにしちゃえば、わかりやすい」

みたいに既成の何かへ当てはめたくなる心理もある。

           

今のところ国際的な学会における認識では

「みたからは既成の宗教とも新興宗教とも関わりがない」

「芸術である」ということで落ち着いています。

           

みくさのみたからの集いと広がりは国際的に

「パフォーミング芸術の元形にして理想形」として

専門的な芸術学会で知られるようになってきました。

           

あらためて。みくさのみたからは宗教か?

氣になっていた人には、ズバリ面白い話題でしょう。

これから、少しずつ、たしかめて参りましょう。

          

新興宗教とは何なのか、伝統文化とは何なのか、

いわゆる「宗教」と「宗教以外」の境目はどこにあるのか、

ある角度から確認してみる佳い機会にもなるかと思います。

       

ここから先は、用語を次のように省略させてもらいます。

「みたから」=みくさのみたから、

「宗教」=主に新興宗教、という意味で用いていきます。

        

        

    ざっくりと較べてみたら……

        

みたからは里山で暮らしてきた人たちの生活習慣です。

「お味噌」みたいに久しく受け継がれてきた伝統文化。

お互いに日ごとの暮しを愉しんでいける美味しい習慣。

           

国家・税金・軍隊・宗教・貨幣経済・法律・病院・学校、

そういったシステムが生まれた時代の、はるか以前から、

誰もがあたりまえに行っていた昔ながらの快活習慣です。

        

海山の里で日ごとに生き心地よく暮らす術。

健やかに、晴やかに、面白く、楽しく暮らす術。

代々おばあちゃんから孫に伝えられてきた智恵です。

        

いのちの立場を愉しんで暮らす智恵といってもいい。

身につけておくと、日ごと、いのちの立場を実感できる。

人工的なシステム・勉強・練習・訓練・修行とは真逆。

          

いのちにとっては、今どのように動くと心地よいか、

どのように声を出して、どのように想うと心地よいか、

それぞれがいのちの立場で味わいながらたしかめられます。

          

いのちの立場を実感してしまったらどうしても、

宗教・思想・権威など、頭で固定された何かを

絶対視することができなくなっていくようです。

           

いつでもその場で、もっと心地よい方法を

新しく生みだし続けていけるような生きた智恵。

これは固定された何かを信じ続けるのとは逆です。

          

みたからの場合、効力をまったく信じていなくても

実際に、身ずから、効き目を実感することができます。

固定した何かを信じ込んだりする必要はありません。

           

かたや宗教の場合は、あらゆる局面において、

次のみっつの固定観念が絶対に欠かせません。

あらゆる宗教には次のみっつの要素が出揃っています。

           

① 教祖 信者はこれを絶対に信じて従うべきである。

② 戒律 信者はこれを絶対に信じて従うべきである。

③ 教典 信者はこれを絶対に信じて従うべきである。

       

みたからは、お味噌汁みたいな伝統なので、

このみっつとはどこにも関係がありません。

較べてみれば違いは すっきりしています。

     

① みたからは誰もが昔からしていたようなことです。

② みたからには形や決まりがありません。

③ みたからは口承伝統なので教典も文書もありません。

          

かたや宗教では、教祖・戒律・教典教義が絶対で、

信者だったら必ず、このみっつを信じねばならない。

「絶対的三大要素」を笑い飛ばすことができないんです。

      

誰かが書いた何かのルールを絶対視している人は、

本人は宗教に入っていないつもりでも、

宗教に囚われてしまっていることになるでしょう。

          

すでに固定されてしまった人工的なシステム、

宗教・思想・手法などを絶対視して従っている人は、

身ずから何かの奴隷になっているのかもしれない。

          

そういう人はむしろこれまで自然な生命力を、

純粋で素直な野生の力、エロ・バカ・ワルを、

抑えつけたり怖がったりしてきたようです。

          

多くの人はなぜ、宗教団体を恐れるのか。

世界観や、家や財産や、生き甲斐を、根こそぎ、

奪われて失ってしまうのではないかと思うからでしょう。

          

かたや、みたからをひらいてきた人たちはそれぞれに、

そうした色いろを、自力で、程よく豊かに増やしています。

身ずからの力でそうなるので教祖戒律教典とは関係がない。

          

みくさのみたからと宗教との関わりについて、

みたからを身につけている人たちに尋ねてみると、

およそ次のような答えが得られることが多い。

        

「かなり、かけはなれている」「真逆だと思う」

「みたからをひらいている人たちは、

 宗教とか必要なくなってしまうのではないか」

           

「みたからと宗教を、勝手に関連づけてしまうような、

 そうした人たちがいるのも、わからないではない」

「みたからを、あやしく思う人の気持ちもわかる」

       

こうした話はもちろん「当事者」の話なので、

話半分に聞いておくほうがよいかと思います。

誰にでも思い込みはあるし、盲点もあるでしょう。

        

氣になるのは「傍目にはあやしく見えるかも」

「宗教と関連づける人がいるのもわからないではない」

と、みたからを身につけた当事者も分かっている所です。       

         

たしかに人氣・即効性・敷居の低さ・話題性などで、

「もしや宗教ではないか?」と思われるくらい、

みたからの登場にはインパクトがあったようです。

         

日本中に、世界中に、みたからが広まっていくなか、

数知れず、色いろな、人間ドラマがありました。

びっくり奇跡みたいなエピソードにもこと欠きません。

        

みたから珍道中は今も世界中で続いています。

いずれ、そうした実話エピソードをまとめて本にしたら

読みものとしてもだいぶ面白いのではと思っています。

        

わずか1日で身につけられる、みくさのみたから。

いったいどんな宝なのか、それぞれに身につけてみて、

身をもって味わってみるほうが早いのではと思います。

         

         

         

  3 辛く哀しく怖かったこと

         

おばあちゃんから承け継いだ みたからを

私・飯田茂実は、世のなかに伝え広めてきました。

実は、始めのうち、とっても怖かったんです。

         

20代前半には、怖いより何より、諦めていました。

近代化されて個人主義になった世のなかの人たちが、

みたからを互いに取り戻せるとは思っていなかった。

        

その後、膨大な心身術を試し、身につけ、学ぶうちに、

みたからこそが万人向けの合理的な術だと氣づきました。

これ以上、素早く・たやすく・心地よい方法は見あたらない。

            

地球規模で広がっていた伝統術だということも知りました。

この伝統を途絶えさせてしまったら人類にとって損失になる。

みたからを広く、世に取り戻すという、志を抱きました。

        

あとはもう10年あまり不言実行。

主に芸術ジャンルでみたからを伝えてきました。

ただし昔ながらの用語は、慎重に伏せておきました。

       

   みくさのみたから

   みっつでひとつ

   皆元のすべ・たまちのすべ

     

   たなそえる

   まことのる

   ちのみちとおす

     

   たなこころ

   まことのりと

   やまんちのみち

      

どれも奥ゆき豊かな伝統的やまと言葉です。

この言葉でないと伝えきれない豊かな中身がある。

説明したらみんなすぐに、わかってくれます。

      

ところが近代教育を受けてしまった人にとって

こうした言葉は一聴よくわからなくて、もどかしい。

あやしく思う人たちはたくさんいたことでしょう。

            

なぜ私がみたから用語を隠していたのかといえば、

オーム真理教による無差別テロ事件のあとの世相、

短絡的に怖がる人が出てくるのは予想できたから。

          

「気味が悪い」「あぶない宗教ではないか?」

こういうふうに勘違いされるのが、

継承者としては、いちばん辛く、哀しく、怖かった。

      

味噌という伝統が途絶えているのを憂えて復活させた末、

臭くない? う○こ? みたいな勘違いだけはイヤだった。

だからどうしてもカミングアウトできなかったんです。

      

これから先の子供たち、この星の先ざきのことを想って

カミングアウトを決意したのは3.11を体験した後です。

もう、辛いとか、怖いとか、怯えている場合ではなかった。

        

それまでの私には切迫感が少なかったし自覚がなかった。

万人向けの術を閉ざしていた臆病者と言われても仕方ない。

求めていた人たちのことを想えば恥ずかしいことでした。

         

        

  4 どうして起きたの カンチガイ?

      

みたからは宗教?というイメージが生まれる理由。

そいつはおまえだ! 飯田茂実! 真剣すぎたんじゃ!

おまえが全身全霊、全力疾走してきたせいじゃろう!

         

みくさのみたからといえば、飯田茂実が出てくる。

こいつが皆を惑わすカリスマ教祖なんじゃないか?

そういう勘違いが出てきちゃった心理もよくわかります。

          

文学・音楽・ダンス・美術・演劇・療術……

芸術家にしてもジャンルの内容が多すぎ広すぎ。

こんな人がいていいの? なんか得体がしれない。

           

色いろな分野で世界規模の活動をしてきたはずなのに、

なぜか日本のメディアにはあまり登場していない。

いったい何者なの? どんな評判の持ち主なの?

          

世に出てきた人たちに対して複雑感情を抱いて

おまえの化けの皮をはいでやる!みたいに思ったり

蹴落としてやろうと思ったりする人もいるようです。

           

逆に誰かをむやみにヒーロー扱いしてしまって、

その人の発想や夢にぶらさがり・よりかかり・甘えて

依存したがる未熟な心理も、多くの人に共通でしょう。

            

実際に直に知っている人から見た飯田茂実といえば、

清く・正しく・美しくみたいな先生タイプとは程遠い、

どちらかといえば、エロ・バカ・ワルな凡人でしょう。

         

一見デタラメ。何かを固めてパターン化できない。

先生あつかいされるのがイヤ。先祖代々不良少年。

率先してバカやったりイタズラしたりしてしまう人。

         

こういう人が周りの人たちと力をあわせながら

世界的にみたからを取り戻すことになってしまったのが、

幸か、不幸か、だいぶ後になってみないとわかりません。

         

様ざまな、企業、内輪サークル、政治団体、宗教団体、

ボス猿が口から夢色のあぶくを吹いている集団を含め、

色んな団体さん集団さんを、私は観察してきました。

          

人物・言葉・思想・場所・伝え方、

何かが形や決まりとして固定されてしまうと、

人の命はそこに依存し始めてしまう。

         

そうした何かに依存している人はつまらない。

命のちからが枯渇して、生きる悦びも限られてしまう。

本人も周りの人たちも、最後には幻滅して終わります。

         

どこかで危機感を憶えている人たちのなかに

ふっとボス猿が生まれて群れを統括したりしても、

ボス猿に依存した人間は、いずれ必ず幻滅します。

          

身ずからの命の力のほか、固定した誰かや何かに

寄りかかることなく、自立して暮らせるようになる、

昔ながらの生活術の佳いところはこのあたりでしょう。

        

何かに依存しないで済むようになった人たちは

誰かをボス扱いしたり師匠扱いしたりする必要がない。

飯田に依存しようとした人は手痛く蹴飛ばされます。

            

逆に飯田が甘えてきたら、蹴飛ばしてやればいい。

よきにつけ、あしきにつけ、飯田茂実は参考サンプル、

みたからを身につけたらあとはポイしても構わない。

             

たしかに今のところは飯田茂実くらい長いあいだ

この世でみたからをひらいてきた人が他にいない。

当分のあいだは、やむをえず、人間サンプルです。

           

3年後、10年後は、どうなっているかわかりません。

みたからをひらき続けて、こうなった、みたいな

若い人間サンプルが続々と現れてくるからです。

         

みたからをひらいている人たちはこれから先、

いのちにとって心地よい能力をどんどんひらいて、

いのちが喜ぶ活動を多様に展開していくことでしょう。

         

100人力、1000人力になった人たちが

「みたからをひらいてきたらこうなった」と

お互いにひらいた力を併せて楽しむようになる。

            

そうなっていくのが、自然な流れなのでしょう。

すでにちらほら世界中で、登場し始めています。

いずれは みたから人間サンプルたちが大活躍する。

        

そのときにはもう飯田について勘違いして

ムダに教祖扱いする人もいないでしょう。

たとえば次のように言われるのではないかと思う。

        

飯田さんは、呆れるくらい、よくやった!

本当に、いのちの立場で、三本立て。

エロ・バカ・ワルで、よくやった人だった!

        

「飯田さんそういう言動のせいでよけいに

 教祖あつかいされるんじゃないですか?」

みたいに思う人がいたとしたら問いかけたい。

        

あんた身ずから全力つくして夢かなえているか?

頭のなかでごちゃごちゃ相互依存してる場合か?

欲求不満を持て余すのはいいかげんにしたらどうだ?

        

まずは身ずから、身ひとつで、晴やかに生きてみろ!

人の夢の手助けなんかしないで自分の夢を叶えろ!

不言実行!力あわせて何かを成し遂げてみろ!

       

そのためには何が必要か? みくさのみたからだ!

他人の話でわいわいしないで、まずは身につけてみろ!

早けりゃ15分で身につけて、一生続けられるんだから!       

       

        

  てんでばらばら赤字の世界?

        

みくさのみたからのお楽しみ・おさらい会が近頃

〈たまちの湯〉という名前で世界中に広まっています。

このたまちの湯には、リーダーや序列がありません。

        

これをしろ、これをするなという決まりもなく、

各地で、それぞれ、色いろと工夫しながら、

てんでばらばらに、みたからをひらいて愉しんでいる。

        

みたからは、伝統的な生活術というか暮しの習慣です。

みくさのみたからという名前の団体や集団はありませんし

そういった特定団体や固定集団が生まれる余地なしです。

         

みたからは広くあらゆる人にひらかれています。

誰でもたやすく身につけられるので段級やグレードがない。

師匠と弟子とか、先生と生徒みたいな、上下関係もない。

          

もちろん始めのうちは誰かにひらき方を伝えてもらう。

身につけてしまえば、あまりにやたすく当たり前なこと。

だから誰かが先生ぶって威張るわけにもいかないんです。

           

長くひらき続けてきた人たちはみんな自然と世のなかで、

みたからの伝え手さん、語り部さんになってしまう。

だから伝え手さんを固定化したり特権化したりもできない。

           

どのような活動であれ、内輪のマニアックな趣味みたいな

水たまり団体サークルが生まれたらもうおしまいでしょう。

マニアックな内輪サークルに次世代はなく、未来はない。

            

みたからは遠い未来の子孫たちに伝わっていく昔ながらの宝。

文化背景を問わず、誰にでも身につけることができる伝統術。

いつの時代になっても、あけっぴろげで、シンプルです。

       

貯金のない人でも氣がむいたら無料で身につけられます。

身につけたら一生、ひとりで続けていくこともできます。

副作用・お布施・勧誘などのホラーがついてくることもない。

          

みくさのみたからを伝え広める活動は非営利です。

伝えていく人たちの年収はびっくりするほど少ない。

営利活動として成り立つようなものではありません。

                     

伝え手さんたちは他にもしっかり収入源をもっている、

これはもう当たり前のことですので、

食っていくため守りに入る人たちも出てこないでしょう。

           

わし飯田は田舎で貸家に住んでこの文章を書いています。

家の賃貸費は、貧乏学生の安アパート代くらいです。

収入はみたからの普及に使い切って遺産はゼロの予定。

           

昨年、みたからを身につけたアーティストさんを

世界9ヶ国から日本へ招いて、皆で舞台公演を創った。

前代未聞の大好評で、すごい赤字になってしまった。

           

クラウドファウンディングで募金を募ったら、

目標額の10分の1、援助してくれた方々がいました。

目標額の1割だけしか集まらなかったともいえます。

         

みたからを身につけた方たちは、まともだと思いました。

もしも宗教っぽい何かだったら、この国際プロジェクト、

お布施を集めまくって、収支とんとんにしたことでしょう。

        

実際の収支では、宮城県や仙台市の財団からの助成金に、

チケット売上・一般の方がたからの支援金を併せてなお、

あちこちに何軒か家が買えるほどの赤字公演となりました。

        

               

6 まだあるみっつのあやしい要素

     

教祖もいないし階層序列もない。

会員とか名簿とかがある団体でもない。

営利活動として成り立たなくて貯金もない。

         

これでは、たとえ、みくさのみたからを

新興宗教にしようと骨折る人が現れたとしても

宗教として成り立たせることができません。

          

みたからが宗教なんじゃないかないかと

疑う人・不安になる人がいたのには

ほかにも何か漠然としたものがあったようです。

         

漠然としたイメージというか雰囲気というか、

心情的に、なるほど、もっともな理由として、

次のみっつが挙げられるんじゃないかと思います。

        

A 用語のひびきが、なんだか雰囲気的にあやしい

B 効き目がすごいらしい。そんなに効くわけがない。

C 輪になって変な顔していたり、見た目があやしい。

       

どの勘違いも、やむをえません、無知に基づいています。

実際に中身を知らなかったから、疑いが生まれたりした。

事実を知ったら成程びっくり、笑ってしまうと思います。

        

ここから先は、みたからについてこれまで

勘違いされやすかったポイントを含めて

事実どうなのかを書き足していこうと思います。

         

ここまで知ったらもう充分だよ、

もうだいたいのところはわかったから、

そんな方には、ここから先は、些事かもしれません。

       

        

 7 みたから用語は面白い?

        

ひとつの音の響きに、いのち、よのなか、あめつち

少なくともみっつの中身が備わっている、やまと言葉。

宇宙三大奇跡みたいに奥ゆかしく素晴らしいです。

          

奥ゆきのある中身のゆたかな音の響きが

それぞれにつながりあって、やまとことばでは、

あめつちのあらゆることを指し示すことが出来ます。

          

みくさのみたから。たまちのすべ。

みたからの昔ながらの呼名・用語を私はすべて

伊那谷で生まれ育ったおばあちゃんから受け継ぎました。

           

後に日本古典の研究者さんから教えてもらってびっくり

ミクサミタカラという言葉は

『ホツマツタエ』の序文にも載っているんだそうです。

          

『ホツマツタエ』という文書が研究者たちによると

世界でもっとも古い口承文学だという可能性もあり、

『古事記』の原典だということが証明されています。

          

私のおばあちゃんは村の語り部だった人です。

口承文化は近年、ほぼ世界中で消えつつありました。

それが日本の秘境ではまだ、孫に伝える人がいた。

         

たまちのすべというのは諏訪地方に伝わる呼名で、

「た」なそえる、「ま」ことのる、「ち」のみちとおす、

みっつの術の呼名から頭の音をとっているようです。

       

この、たまち、という言葉も、

古来、日本中の神主さんが朝な夕なに

受け継いで唱えていた言葉なんだそうです。

       

ただし数千年のあいだに中身が失われたのか、

「たまち」とは何のことですか?と聞かれて

答えられる伝統は途絶えてしまっていたようです。

       

たな そえる というのは、

掌=たなこころを添えることです。

たすける、たのしむ、などと「た」の語源は同じです。

      

「手当」よりもさらに昔ながらの術。

たなこころを用いて楽しむことすべて、

想いを活かす活動すべてが含まれます。

      

まことのるというのは、

真コト=まことに

想い描きで、乗ることです。

        

真コトというのは

永い目でみて命にとって心地よい言。

これは各自、身ずから生みだします。

        

ノルというのは、乗る=宣る。

吐息に声で乗り、声に真コトで乗り、

慣れてきたら真コトに想いで乗るようにします。

       

なんのこっちゃか、わからなくても大丈夫、

実際にやってみたら3分〜15分で身につきます。

わからなくてもすぐに効き目は現れます。

          

ちのみちとおすというのは、

いの「ち」の道を通し・透して、

いのちを晴やかに澄みやかにすることです。

         

血液・リンパ・神経ニューロンの接続、

人との交わり、草木や獣など命との交わり、

等など色んな「命の道」をとおすことができます。

       

ち、という音にはもともと、

血・乳・千の生命・風、などの意味があります。

ちのみちとおすと、そうした流れがよくなる。

       

伸びをするとき、人はちのみちとおしています。

イケ目・イケ顔・イケ真コトという入口を用いて、

命にとって心地よい動きを出来るようになります。

       

こうした呼名すべて、初耳のときはともかく

実際に、身ずから試してみたら、成程びっくり、

その場ですぐに納得いただけることかと思います。

        

たなそえる・まことのる・ちのみちとおす、

訳あって「動詞形」で受け継がれてきたようです。

どれも博物館にしまっておけるような物ではない。

            

            

8 みたからって効きすぎてない?

        

誰でもすぐに身につけられて

その日から整体や鍼灸に通う必要がなくなって

次の日から一生、日ごとにずっと続けていける?

        

身につけてひらいていたら、

痛み・苦しみ・名ヤミがすぐに消えてしまう?

これ以上、素早く・たやすく・心地よい方法はない?

        

この世のなかにそんな方法、あるわけないだろ!!!

だったらなんで現に、病気や苦しみがあるんだ!?

だまされちゃいけない!宗教だったらどうするんだ!?

       

そのように思う人がいても無理はないでしょう。

近代的な教育制度・近代的な思考方法のなかには、

みくさのみたからを位置づけられるスペースがなかった。

       

位置づけなくても効くんです。仕方ない事実なんです。

みくさのみたからを実際に体験することで、

狭苦しい近代の制度や思考法からも、卒業できます。

         

傍目にあやしいと思われて仕方ないくらい

みくさのみたからの効き目はびっくりです。

近代文化・現代文化を引っくり返すインパクトがある。

       

もしも醗酵食品がすべて途絶えた時代があったとして

その時代に、味噌づくりという伝統をひとり受け継ぎ、

仲間たちとお味噌汁を愉しんできたバカがいるとします。

               

このバカが全国を旅して味噌づくりを復興した場合、

すでに腐敗と醗酵の区別さえつかなくなっていた人たちは、

初めて呑む味噌汁に、何らかの衝撃を受けるでしょう。

          

「美味しい! 何これ!」「変な味だけど……体によさそう!」

不慣れな味がショックで吐き出す人だっているかもしれません。

「変じゃない? 腐ってるの? 気持ちわるくない!?」

         

            

                

 9 みたからの見た目 芸術か?

          

実際に、誰かが、みたからをひらいている現場は、

近代文化の堅苦しい立場からすると、一瞬、変てこです。

大勢で伸びをする景色も、慣れてくるまで、ちょっと変。

           

みんなで輪になって伸びをしているところを見て、

氣もちよさそう!と思う人だけではないようです。

さらに「変てこ度数」が高まってしまうかもしれない。

          

お腹のなかにいた頃、赤ちゃんだった頃、

元もとは、誰しも、心地よく伸びをしながら、

いのちにとって心地よく声を出していました。

          

祭なんかでも皆が心地よくバラバラに揃っています。

細かいところではみんなバラバラ、てんで勝手に、

揃ってひとつながりの生き心地よさを愉しみます。

          

近代的な学校に入るといったん教室の椅子のうえで

心地よく声をだすことも伸びをすることも禁じられます。

家畜みたいにしつけられるお子さんたちもいます。

          

したくなくてもするべきだからしなさい、

したくてもしてはだめだからやめなさいと、

頭で命をコントロールする訓練が始ります。

        

中学生くらいになるともう脳内奴隷制ができあがって、

授業中に心地よく伸びをして心地よく声を出せるのは

よほどのワルか、よほどのエロバカだけでしょう。

          

意識で体に命令をくだして、体を束縛する。

自然な欲求を抑圧して、集団で、体をコントロールする。

頭で作った形を体におしつけ、揃ってマスゲームする。

          

「こうすべき」「こうせねば」という思い込みを

皆で共有して頑張る、おそろしい世界とも言えるでしょう。

そんなことを続けていたら命は苦しんで壊れてしまう。

          

そうして、そういう人工的に凝り固まった立場から見ると

自然でしなやかな昔ながらは、わけわからなく思えたりする。

祭を愉しんでいる人たちがあやしく見えたりもするでしょう。

           

俺のできない変なこと、見慣れないことをしている。

大勢で得体の知れないことを……つまりこれこそが

いわゆる あやしい しゅ、宗教なんじゃないの!!??

        

このようなイメージの短絡が起こるのは

過去20年ほど、ありふれたことだったと思います。

人びとが意識で体をコントロールしすぎた時代です。

        

色いろとその反動もやってきたようです。

自然食・自然農法・自然療法・自然出産……

多くの人が少しずつ自然な有り方に目覚めています。

             

そんな背景もあって近頃はようやくのこと、

色んな人たちが少しずつ公の場でも自信をもって

命の立場をさらけ出せるようになっています。

             

今やアイドルも芸人もヘン顔・イケ顔をする時代、

もう少しすると、人びとが みたからをひらく景色は、

心地よい景色として世界中に定着することでしょう。

           

実際に、時代を先どりするアート界では、

輪になって共に何かをする昔ながらの愉しみ方が

すごい勢いで世界中に盛りあがってきています。

         

新世代のミュージシャンもダンサーも

世界中でどんどん、まことのりながら、

イケ目イケ顔イケ真コトを始めています。

             

そもそも、芸能・芸術・工芸などの芸事のなか、

そして昔ながらの祭のなかには永いあいだ、

昔ながらのみくさのみたからが息づいていました。

             

                  

0 祭のちからを取り戻す

        

日本人は昔からお祭りが大好きです。

日本人だけに限ったことではない。

世界中、誰でも、お祭りするのは大好きでしょう。

        

あちこちで人びとが地元の祭りを愉しんでいた時代。

そんな時代だったらまさか、みくさのみたからが、

宗教あつかいされるなんてあり得なかったでしょう。

        

ああ、たまちっていったら、お祭りのときのあれね、

そんなふうに、皆がおおらかに笑いながら、

それぞれに、みたからをひらきだすと思うのです。

        

昔から言い伝えられているように、

自分がどこから来たのか知らない者は

どこにも行くことができない。

        

みたからがどこから来たのか想い描くと、

お互いに生き心地よく活かしあって暮らす村、

老若男女の、村まつりの景色が広がっていきます。

             

みたからが向かっていく先にあるのは、

晴やかに、すこやかに、たいらかに、

皆でお祭りをして愉しんでいる景色です。

        

みくさのみたからっていったら

ああ、みんなでお祭りするときに、

みんながやっている、あれね。

        

そのくらい世界各地で日本各地で

みくさのみたからは祭のなかの

ありふれた当たり前の必須でした。

        

祭りには、いのちの立場が充ちみちています。

そこでは堂々とバカなことがもてはやされる。

エロもワルもゆるゆるゆるされてしまう祭り。

        

みくさのみたからが向かっていく先は、

それぞれに身ずから生命力をひらきながら、

ひらいた力を併せて祭を愉しんでいる景色。

         

そこには決まりもなければ支配者もいない。

ルールがあっても外れちゃってOK

みんなの生命をつなぎ天地をつないで遊びます。

         

身ずからの能力をひらくことができるように

その力を仲よく併せていくことができるように

皆でバラバラに揃って祭りを愉しめるように、

        

昔の御先祖さんたちは、

みくさのみたからという生活習慣を

世界最強の生活術を受け継いでくれたのでしょう。

        

力あわせて思いきり命の祭りを愉しんでいく。

時代ごとに愉しみ方の流れは様々でしょう。

どこから来たか知っている者には行くあてがある。

        

いきいきしみじみ楽しくていのちが元気になる祭。

昔ながらのお祭りは、いつでも進化し続けていて、

目安があるだけ、形もなければ決まりもない。

         

命そのもの。いのちの祭をいま、この瞬間にも、

ひとりでも、誰とでも、大きくても小さくても、

みたからをひらけば、取り戻すことができる。

         

私は長いあいだ不言実行でやってきましたので、

行く先ざきで色いろとカンチガイもされました。

個人的にはいくらカンチガイされてもまあ仕方ない。

         

みたからを宗教と結びつけてしまうような人が

今はどれほどたくさんいたとしても、どうせいつかは

みんな腑に落ちてくれるんだから、かまわないや。

         

とは思いつつ、この万人向けの素晴らしい術が、

誰かから変なカンチガイをされたままでは、

先ざきの人類にとって大きな損失だとも思います。

           

過渡的な・一時的なことなんだからと放っておくよりは

少しくらいは事実を示しておけないかと思い立ちました。

ひとりふたりでも読んでくださる方はおられるでしょう。

          

久しく閉ざされていた みたからを、私はこれからも

地元で、旅先で、取り戻していくことになると思います。

もしも死後、なにか力を残せるのなら、死んだ後にも。

                  

みくさのみたからは、人類史上、最大の宝かもしれません。

百聞百見は、体験ひとつに如かず。案ずるより生むがやすし。

まだ身につけていない方は身につけてみるようお薦めします。

                  

伝統文化なんて、意地でも一生身につけたくないという方も、

あらためて態度をはっきりさせる機会になればと思いました。

長い文章を読んでくださって、ありがとうございました。

               

           

          20171月吉日 飯田茂実